セブ便り(第1回) 「フィリピン史の始まりはセブにあり。ーマゼランの来訪」

令和4年6月1日
セブ便り(第1回)
「フィリピン史の始まりはセブにあり。ーマゼランの来訪​」
 
 日本の多くの方は、フィリピン史の始まりは、1521年のフェルディナンド・マゼランによるセブ島到着、そしてその44年後、1565年のスペイン領メキシコ総督府から来たミゲル・ロペス・デ・レガスピによるセブ島植民地化の開始にあるということをご存じないのではないかと思います。
 
 私も、恥ずかしながら、マゼランは、世界一周の探検の途中、フィリピンで原住民に殺されたとの小学生の頃得た知識から、これまで一歩も進んでいませんでした。
 
 ここでは、マゼランが、セブ島に到着した経緯、そして、レガスピがセブ島を領有し、その後、マニラを首都と定めるまでの経緯を皆さんとともに辿っていきたいと思います。
 
 マゼランは、スペインのチャールズ一世から、香料諸島として知られていたモルッカ諸島(現在のインドネシア、マルク諸島)の探検を命じられ、1519年9月に5隻の船を率いてスペインを出港し、翌20年3月に、南米大陸南端近くのプエルト・サン・ジュリアンの港に到達し、そこから、マゼラン海峡を通過して太平洋に出ます。マゼランが太平洋を横断して、西太平洋のマリアナ諸島(現在のグアム島周辺)に到達したのは、1521年の3月でした。マゼランは、そこで水と食料を補給した後、更に西に航行し、1521年3月17日に中部フィリピンの東側に位置するサマール島に到達します。そこで休養をとった後、マゼランは南下し、レイテ島の南にあるリマサワという小島に1週間滞在します。マゼランは、そこでセブという名の豊かな島があると聞き、西に向かい、1521年4月8日にセブに到着するわけです。
 
 マゼランは、自らの奴隷兼通訳であったエンリケ・デ・マラッカをセブ島の首長であったラジャ・フマボンの下に派遣し、自分たちは敵としてではなく友人として来訪した旨伝えさせます。双方が贈り物を交換し、血盟の儀式が行われました。4月15日、ミサが行われ、十字架が建てられました。そして、フマボンとその妻を含む約800名が洗礼を受けます。この場所は、現在、「マゼラン・クロス」として知られています。
 
 
(マゼラン・クロス)
 

マゼランは、これらの行事を記念して、フマボンの妻ジュアナ(洗礼名)に、サント・ニーニョ(幼きイエス)の像を贈ります。
 
在セブ総領事 山地秀樹
 
(参考文献)
“Philippine History: Expanded and Updated Edition”, by Teodoro A. Agoncillo, Fe B. Mangahas, C&E Publishing Inc., Quezon City, Philippines (2010)
“Over The Edge of the World: Magellan’s Terrifying of Circumnavigation of the Globe”, by Lawrence Bergreen, William Morrow and Company(2003)
(了)