セブ便り(第2回) 「フィリピン史の始まりはセブにあり。-ラプラプの戦い」
令和4年6月16日
セブ便り(第2回)
「フィリピン史の始まりはセブにあり。-ラプラプの戦い」
「フィリピン史の始まりはセブにあり。-ラプラプの戦い」
マゼランが、洗礼等の一連の行事を終えた頃、セブ島の東隣のマクタン島において、スーラとラプラプという二人の首長の間に争いが起きます。スーラ首長は、ラプラプ首長がスペイン国王を認めていないとして、マゼランに助けを求めます。マゼランは、自らの力を示すよい機会だとの考慮もあり、スーラ首長の求めを受け入れます。マゼランは、1521年4月28日早朝、約60名の乗員を連れてマクタン島に向かいます。ラプラプ首長は、スペインに敬意を示せとのマゼランの要求を拒んでおり、最後まで戦い抜く覚悟でした。
鈴木静夫氏の著書「物語フィリピンの歴史」によれば、ラプラプ側の勢力は1500名で、これが、マゼランの船に搭載している大砲の射程外に位置していたため、マゼランは、船を下り、マクタン島に上陸して白兵戦を挑みます。これに対し、ラプラプの部隊は、マゼランの部隊を正面と両側面から挟み撃ちにします。マゼランは足を負傷し、8名ほどの兵士とともに海岸に取り残されます。最後は、マゼランはラプラプ兵士の槍によって殺されました。遺体は回収されませんでした。
マゼランの死亡場所には、後に、神殿が建設されました。「マゼラン・マーカー」と呼ばれています。

マクタンの戦いの概念図

(マゼラン・マーカー)
(注:2021年12月の台風オデットの強風のため、神殿の最上部が崩落しました。これは2022年5月に撮影したものです。)
(注:2021年12月の台風オデットの強風のため、神殿の最上部が崩落しました。これは2022年5月に撮影したものです。)
スペイン側からみれば、マゼランの死は悲劇ですが、フィリピン側では、マクタンの戦いは、国外の勢力を武力で追い払った最初の事例として記憶されています。

(ラプラプ首長の像)
マゼランの戦死により、スペイン兵士はセブ島まで撤退しましたが、セブ島でも彼らは住民から攻撃を受けます。これは、フィリピンの歴史書によれば、スペイン人が住民に対して、強盗を働き、何人かの女性を性的に暴行したためであるとされています。
生き残ったスペイン人は、3隻残された船のうち、1隻は使い物にならないと判断して燃やして沈めます。残りの2隻のうち、「トリニダード」号は、太平洋経由でスペインに戻ることになりましたが、航海の途中で、ポルトガルの船に捕獲されてしまいます。もう1隻の「ヴィクトリア」号は、アフリカを経由してヨーロッパに向かいます。この船だけが、セバスチャン・エルカーノの指揮の下で、スペインにたどり着くのです。
在セブ総領事 山地秀樹
(参考文献)
“Philippine History: Expanded and Updated Edition”, by Teodoro A. Agoncillo, Fe B. Mangahas, C&E Publishing Inc., Quezon City, Philippine (2010)
“Introduction to Filipino History” by Teodoro A. Agoncillo, Garotech Publishing (2006)
「物語フィリピンの歴史」、鈴木静夫著、中公新書(1997年)
(了)