セブ便り(第8回)「日本とセブとの関わり-戦没者の慰霊」

令和4年9月7日
セブ便り(第8回)「日本とセブとの関わり-戦没者の慰霊」
 
 次に戦没者の慰霊についてみていきます。
 
(セブ観音)
 「セブ便り」第6回では、1945年3月26日に米軍がセブ島に上陸した際、現在のセブ観音が建立されている付近の陣地で日本軍と激戦になったこと、4月16日に同陣地が陥落した後は、日本軍は散発的に戦闘を行いながらセブ島北部へ移動し、8月15日の終戦で投降したとお伝えしました。結果として6000名を超える方々が戦死または病死されました。
 戦後、厚生省の遺骨収集団がセブ島に初めて派遣されたのは1974年(昭和49年)のことです。それ以降、戦友や遺族の慰霊団がセブを訪れ、慰霊墓標を建てていきます。
数年後、墓標が建つ場所にセブプラザホテルが建設されることになり、墓標の撤去の話が出てきます。セブの陣地にあった海軍第33特別根拠地司令部の主計長であり、司令長官副官であった岡田貞寛氏(元海軍少佐)は、この墓標撤去の件を心配されていたようです。当時のクラレケミカル(株)の豊島社長が岡田氏と親しくなられた関係で、豊島社長から情報収集の指示をうけて、セブでクラレケミカルの合弁会社、セナプロ・ケミカル・コーポレーションの小菅駐在員が、墓標のお守りをしているソリヤ氏を訪ね、墓標の維持管理を行うことになりました。
 1979年(昭和54年)、岡田氏を団長とする32名の海軍部隊第一次慰霊団がセブを訪問します。その後、ホテル側から墓標撤去の要請が正式にあり、交渉の結果、慰霊墓標は慰霊団が撤去すること、その代わりに観音像を建立すること、建設費用と補修費用は慰霊団が負担し、ホテルは土地を無償で提供するとともに、完成後は観音像周辺の清掃維持管理にあたるということで合意が得られました。
 1983年(昭和58年)5月21日、第三次慰霊団の見守る中で観音像の除幕式が行われました。同日の夜、セブプラザホテルにおいて、陸海空軍司令官、セブ市長、マンダウエ市長はじめ各界の名士が出席し、盛大なメモリアル・パーティーが開かれたということです。
 
(セブ観音)
 
 
(フィリピン・日本慰霊碑)
 海軍の戦友及びご遺族の方々が中心となって建立されたセブ観音に比べて、サンペドロ要塞前にある「フィリピン・日本慰霊碑」には、建立の経緯や建立年が記されていないため、正確な情報が得られていません。しかし、同碑については、以下の未確認情報があります。
「この碑の建立者は、大西精一中佐率いる陸軍独立歩兵第173大隊の関係者であると考えられている。大西大隊約2000名は、1944年1月22日に、セブ港に到着した。同大隊の任務は、フィリピン人ゲリラの掃討であり、大きな功績をあげた。しかし、終戦後、大西中佐は、セブ島住民の告発を受けて、BC級戦犯として、マニラでのBC級極東軍事裁判にかけられた。同裁判で、ゲリラ部隊を指揮していたジェームズ・M・クッシング米陸軍中佐は、大西大隊の戦闘行為は、上官命令に従ったものであり、無罪であると主張した。この主張もあり、大西中佐は処刑を免れ、巣鴨刑務所に送られた後、釈放された。」
 この碑には、以下の建立の趣旨が刻まれています。
「第二次世界大戦において、ここセブ島に多数の日本人、フィリピン人が散華されました。この方々のご冥福を祈るとともに人類最大の不幸である戦争を再び繰り返さないことを誓います。この碑が日比両国の永遠の平和と友情を培う礎石となることを心から願うものです。」
 
(フィリピン・日本慰霊碑)
 

(南方第14陸軍病院慰霊碑)
 南方第14軍病院は、1942年(昭和17年)8月から1945年(昭和20年)4月までセブ市内に置かれていましたが、戦況悪化により、フィリピン各地への移動を余儀なくされました。同病院には、最盛期には、455名の病院従事者と600名~800名の患者がいたようですが、終戦時の生存者は最盛期の3割であったようです。同病院跡は、現在は、ビンセンテ・ソト記念病院となっています。
 
(南方第14陸軍病院慰霊碑)
 
 
在セブ総領事 山地秀樹
 
(参考資料)
「セブ観音由来」 セブ慰霊団、セブ観音奉賛会 昭和58年5月
我が社の半世紀の歩み クラレケミカル(株) 第6節
セブ島通信 1998年9月 VOL 47
セブ島通信 2002年7月 VOL 111
セブ島通信 2009年7月 VOL 169

(了)