セブ便り(第15回) 「パナイ島イロイロ市に戦前約600人もの日本人が住んでいた!! イロイロの歴史」
令和5年2月15日
セブ便り(第15回) 「パナイ島イロイロ市に戦前約600人もの日本人が住んでいた!!イロイロの歴史」
パナイ島の日系人について長年研究されてきた方がいます。フィリピン大学の元教授、マ・ルイサ・マブナイ博士です。研究対象地域をパナイ島に絞って、しかも、戦前の日本人やその後の日系人に焦点をあてるとは面白い視点だなと思いましたので、私がイロイロ市に出張した際に、同元教授にお会いしました。
(パナイ島の位置)
どうして、パナイ島の日系人について研究しようと思われたのですかとマブナイ元教授に尋ねると、「フィリピン大学の修士課程にいる時に、父親が亡くなり、地元であるパナイ島に戻らなくてはならなくなった。指導教官から、『パナイ島でも研究可能なテーマを修士論文のテーマにすればよい。』とのアドバイスを受け、パナイ島の日系人をテーマとすることに決めた。」との答えが返ってきました。同元教授は、また、「自分が子どもの頃から、自分の両親や親戚が『戦時中に日本人は、こんなひどいことやあんな悪いことをした。』といった日本人への非難ばかりを聞かされてきた。それはもうわかったから、戦前、パナイ島で日本人が何をしていたのかをもっと学びたくなった。」ともおっしゃっていました。
(マブナイ元教授と筆者)
マブナイ元教授の論文は、戦前から戦中、戦後にかけての日本人及び日系人の動きを、当事者や関係者へのインタビューを含めて、詳細に追っています。日本人及び日系人の大きな流れは、セブを含めた他の地域とほぼ同様です。「1900年代初頭に、日本人が「出稼ぎ」でパナイ島に入りはじめ、更に、多くの日本人が経済的利益を求めて移住した。1939年には574名の日本人が住んでおり、うち172人は漁業従事者(主に沖縄出身者)であった。日本の敗戦によって、多くの日本人及び日系人が日本に戻ったが、少数の日系人は、フィリピン人の養子になるなどして、また、身元を隠して、パナイ島に居住し続けた。戦争によるフィリピン人の強い反日感情から、彼らは、貧困レベル以下の生活をし、まっとうな教育も受けられなかった。日本人としての文化的ルーツも失ってしまった。日本の経済発展に伴い、日本からフィリピンへの慰霊団訪問等を契機として、日系人のルーツを明らかにする作業が行われた。1990年代までに、彼らの態度はよりオープンになり、日本人らしくなった。」
私が興味を持ったのは、戦前にイロイロに住んでいた日本人の数が約600名であったという事実です。セブ便り第5回で明らかにしましたが、1937年時点でのセブ日本人会の会員数は153名でした。私は、フィリピンでは、スペイン植民地時代から、マニラ、セブ、ダバオが常に主要都市であったと思い込んでいたので、なぜ、イロイロにセブを上回る人口の日本人が居住していたのかがわかりませんでした。
私が興味を持ったのは、戦前にイロイロに住んでいた日本人の数が約600名であったという事実です。セブ便り第5回で明らかにしましたが、1937年時点でのセブ日本人会の会員数は153名でした。私は、フィリピンでは、スペイン植民地時代から、マニラ、セブ、ダバオが常に主要都市であったと思い込んでいたので、なぜ、イロイロにセブを上回る人口の日本人が居住していたのかがわかりませんでした。
(戦前のイロイロ市街、有名な建物や地元の人々(マブナイ元教授からの提供による))
(イロイロ日本人学校(マブナイ元教授からの提供による))
少し調べてみて分かったのは、日本人がイロイロに移住し始めた20世紀始めには、イロイロはマニラに次いで経済的に重要な地であったということです。イロイロでは、1572年、セブに次いで2番目に早くスペイン人の入植地が建設されました。フィリピン国内の他の地域と異なり、イロイロの人々は、キリスト教を積極的に受容し、スペインを支持します。スペインからの技術移転を受けて、18世紀末には、大規模な織物産業がイロイロで発達し、「フィリピンの織物の首都」と呼ばれるようになります。その後、織物産業は、英国からの安価な織物との競争に敗れて衰退しますが、19世紀半ばには、砂糖の世界的需要増大にともなって、砂糖産業が発達します。同時期、イロイロの港は国際的に開港し、フィリピンで最も大きい港になります。1896年にマニラで独立を求めて、スペインへの反乱が始まった際、イロイロ市はスペインへの忠誠を示し、反乱を鎮圧するために500名の義勇兵をマニラに派遣します。このようなスペイン支持の姿勢から、1898年の米西戦争でのマニラ湾海戦で敗れた後、スペインは、スペイン東インドの首都をイロイロに移します。イロイロは、アジア太平洋地域でのスペイン帝国の最後の首都となるのです。
(1898年のイロイロでのフィリピン人大隊)
(出典:Philippine-American War, 1899-1902)
https://www.filipinoamericanwar18991902.com/thewarinthevisayas.htm
1899年に、米比戦争が発生します。この戦争では約20万人のフィリピン民間人と2万人のフィリピン人兵士が犠牲になったと言われています。米軍は、1899年2月にイロイロを砲撃し、多数の建物を破壊します。イロイロの住民側も町を放火したため、イロイロ市街は灰燼に帰します。イロイロの人々(イロンゴ人)による米軍への抵抗は、1901年まで続き、イロイロは米軍の手に落ちた最後の市の一つとなります。イロイロ市は、1901年に市から町に降格されます。(1937年に市に再昇格。)イロイロ市の経済も、砂糖の需要減退や港での労働争議などにより低迷していきます。イロイロ市からバコロド市やセブ市に人が流出するようになり、イロイロ市の経済的地位が低下しました。
(1899年2月11日に米軍が侵略した際のイロイロ市と米軍)
(出典:Philippine-American War, 1899-1902)
https://www.filipinoamericanwar18991902.com/thewarinthevisayas.htm
イロイロ市の管理官、メルチョール・タン氏によれば、約20年前は、イロイロ市は、ゴミが散乱し「フィリピンで最も汚い市」と呼ばれていたようです。しかし、ジェリー・トレーニャス市長とアーサー・ディフェンソール知事が、ゴミ収集に力をいれ、現在ではイロイロ市街は驚くほどきれいになりました。市の中心を流れるイロイロ川も浄化運動により美しく保たれています。イロイロ市には、多くの教育機関が集結し、ITのハブとして発展を続けています。私は、イロイロ市の発展に大きな可能性を感じています。
在セブ総領事 山地秀樹
(参考文献)
Ma. Luisa Mabunay, “Tracing the Roots of the Nikkeijin of Panay”, DANYAG: UPV Journal of Humanities and Social Sciences, Vol. XI, no.2 (2006): 137-174
“About Iloilo” Province of Iloilo, http://www.iloilo.gov.ph/en/about-iloilo
“History - Iloilo city”, City of Iloilo, http://www.iloilocity.org/history.html
Ma. Luisa Mabunay, “Tracing the Roots of the Nikkeijin of Panay”, DANYAG: UPV Journal of Humanities and Social Sciences, Vol. XI, no.2 (2006): 137-174
“About Iloilo” Province of Iloilo, http://www.iloilo.gov.ph/en/about-iloilo
“History - Iloilo city”, City of Iloilo, http://www.iloilocity.org/history.html
(了)