セブ便り(第18回) 「日本・セブ関係史再訪」

令和5年5月17日
セブ便り(第18回)「日本・セブ関係史再訪」
 
 セブ便り第5回から第8回にかけて日本とセブとの関係史に触れましたが、最近、「セブでの日本人コミュニティー 1900年から1945年」という書籍が出版されました。ホセ・エレザール・ベルサレスという当地サン・カルロス大学の考古学の教授と岡田泰平東京大学教授(東南アジア地域研究がご専門)の共著です。私も出版記念会に出席しました。セブ便りを作成するのに苦労した私は、「このような本を待っていました。」と出版を歓迎しました。

(書籍出版記念会でベルサレス教授、岡田教授とともに)
 写真提供:The Freeman


 
 この本は、104頁の短いものですが、これは主に一次資料の少なさからくるものだと思います。この本で特徴的なのは、サン・カルロス大学のセブアノ研究センターが所蔵している「バグ・オン・クソグ」という週刊誌(1915年創刊)の広告情報を用いていることです。この広告情報を元に、戦前のセブでは、日本人が所有し運営するバザールという小型百貨店が12店舗(バザール・コンニチハ、オネスト・バザール、ジャパニーズ・バザール、キョウト・バザール、ニッポン・バザール、オオサカ・バザール、サクラ・バザール、セカイ・バザール、タイショウ・バザール、トウキョウ・バザール、ワシントン・バザール、フジ・バザール)も営業していたこと、大同貿易などの商社が活動していたこと、スナダやモリという名の自転車店が営業していたこと、日本人がヘルスラバー工場というゴム製造工場を作り、靴を製造・販売していたこと、マツオという名前の家具製造業者があったこと、シバタという名前の大工がいたことなどが明らかにされています。

 また、真珠湾攻撃の後、米国本土の日本人と同様に、米国の植民地であるフィリピン、セブでも、日本人が小学校の校舎や倉庫に強制収容されたこと、1942年4月に日本軍がセブに上陸してから強制収容されていた日本人が解放されたこと、その直後に、セブだけでなくビサヤ地域全体を対象にした「新日本人会(ネグロス島200名、パナイ島450名、レイテ島及びサマール島50名、セブ島300名の計1,000名)」が結成されたこと、1944年の半ばからセブからの民間人の避難が始まったこと、1945年1月に避難する民間人を乗せてセブからボルネオに向けて出航した数隻の船が米軍機によりボホール島沖で沈められ多数の犠牲者を出したこと、1945年2月には残された日本人により国民義勇戦闘隊が編成され、隊長をシゲカキ領事が務めたこと、1945年3月の米軍セブ上陸後、この隊は、日本軍とは別にセブ島内に避難したが、ゲリラや米軍の攻撃により、もともと430名いた隊員は、終戦時には19名にまで減少していたことなどが明らかにされています。私は、これらの点を全く知りませんでしたので、大変参考になりました。

(「セブでの日本人コミュニティー 1900年から1945年」邦訳はなし。)
写真提供:The Freeman

 
 一方で、必ずしも筆者に同意できない点が2カ所あります。1つ目は、最終章での「第2章は、(戦前の)セブの日本人が結果的にはセブ住民、特に中国人との間で、信頼に基づく調和のとれた関係を築かなかったことを示した。(85頁中段)」とのステートメントです。
 驚いて第2章をよく読み返してみましたが、戦前のセブ日本人コミュニティーが活発に経済活動を行ったことが明らかにされているだけで、セブ住民との間で「信頼に基づく調和のとれた関係を築かなかったこと」を証拠づける情報は何も記述されていません。あえて言えば、第2章の最後で、「いくつかの注目すべき出来事」として、1919年に日本の軍艦がセブを親善訪問したことや1935年にセブの日本人学校が開校したことなどとともに、1931年の満州事変の際に、セブの一部の中国人青年が不買運動を呼びかけ、これを受けて、当地の日本人コミュニティーと中国人コミュニティーの主要メンバーが話し合ったことが1頁だけ紹介されている(31頁)のみです。この出来事のみをもって、戦前の日本人社会がセブ住民との間で「信頼に基づく調和のとれた関係を築かなかった」と結論づけるのは論理的ではありません。
 私が調べた限りでは、戦前のセブ日本人コミュニティーは、セブの現地住民との関係緊密化に努め、友好親善の実をあげるべく努力していました。このステートメントについては、修正か削除を求めたいと思います。

 同意できない点の2つ目は、帝国陸軍独立歩兵第173大隊を率いた大西精一中佐に関する記述です。この部分の記述を要約すれば、大西中佐が率いる部隊は、戦後裁判された12の戦争犯罪のうち7つの戦争犯罪にかかわったが、大西中佐は、戦争犯罪を戦死した部下に押しつけた、また、ゲリラ部隊を指揮していた米国人ジェームズ・クッシング中佐を逮捕せず逃した経緯があったためか、大西中佐は、米軍からも責任を問われなかったというものです。しかし、「部下に戦争犯罪を押しつけた」との主張の根拠が何も示されていませんし、ジェームズ・クッシング中佐と大西中佐とのやりとりが米軍の対応にどういう影響を与えたかを示す情報も記述されていません。このステートメントの重要な点が、客観的な証拠によってではなく、筆者の憶測によって支えられています。
 大西中佐率いる部隊の主任務はゲリラ掃討であり、大きな成果をあげたが故に現地住民からはひどく憎まれたという話は聞いたことがあります。それが故に、「大西中佐は悪者である。」とのステートメントを先に述べたのでしょうが、これを支える証拠がないならば、このような書き方はすべきではないと思います。

(岡田教授とベルサレス教授)
写真提供:The Freeman

 
 このように気になる点はありつつも、セブでの戦前の日本人コミュニティーの研究が専門家によって行われ、出版されたことは意義深いことであると思います。この本を第一歩として、若手研究者によって更に質の高い研究が進められていくことを希望します。

 
在セブ総領事 山地秀樹
 
(参考文献)
“The Japanese Community in Cebu 1900-1945”, by Jose Elezar R. Bersales and Taihei Okada, published by Tres de Abril General Services Inc., 2023
 
 (了)