セブ便り(第19回) 「地方の有力政治家ファミリー」

令和5年6月21日
セブ便り(第19回) 「地方の有力政治家ファミリー」

 着任以降、日本人が多く居住している州や市を訪問し、そこの州知事や市長等に挨拶をしてきました。当館の管轄区域(ビサヤ地域)には16の州があるのですが、そのうち9州を訪問しました。これらの訪問を通じて最も驚かされたのは、州知事や市長の一族(配偶者、子息、兄弟、更にその兄弟の子供など)の何人かが、上下院議員、他の市の市長、市議会議員といった公職に就いていることです。フィリピンでは、同時に何人もの政治家を輩出し続けている有力ファミリーは、「政治王朝(political dynasty)」と呼ばれており、これは、東南アジアの中でもフィリピンに顕著にみられる特徴なのだそうです。(注)
 
 これについて、私の最初の反応は、「一つの家族から何人も政治家を出して、よく金が続くな。」ということでした。日本では、昔、「井戸塀政治家(政治に没頭して家産を失い、家の井戸と塀だけを残した政治家)」という言葉があったように、政治活動にはとにかくお金がかかるというのが一般的な常識です。フィリピンでの政治活動の資金調達方法や選挙をめぐる資金状況については、まだ詳しくはわかりませんので、この資金面での疑問については時間をかけて調べたいと思います。
 
 次に、一つの家族から複数の政治家を輩出する動機についてですが、ある州知事の方に、「どうして同じ家族から地方政府の長に加えて下院議員なども出すのですか。」と質問したことがあります。その方からは、「現在のシステムの下では、地方の開発のために中央政府から資金を得ようとすれば、予算編成権を持っている下院に身近な人間を送り込んで自らの地方のために資金を得ることが最も効率的である。」との答が返ってきました。これが動機のすべてではないのでしょうが、動機の一つなのかもしれません。
 
 地方の有力政治家ファミリーが多くの公職に就き国政や経済政策に大きな影響を及ぼすことについては、国内外の多くの研究者が研究し、その是非を論じています。私は、是非を論ずる立場にはありませんので、ここでは、地方の有力政治家ファミリーがどのように発生し、存続・発展してきたかの歴史的経緯について、研究者の間でほぼ共通の見解がみられる部分をまとめてみたいと思います。
 
 まず、スペイン統治時代のフィリピンでは、教会の大司教は、政治的にも経済的にも、スペイン総督と同等かそれ以上に強力でした。その下で、地方の司祭は、教会周辺の村に人々を移住させようとしましたが、原住民は、それには従わず、広い範囲に散らばる昔からの集落に住む傾向が続いていました。そのため、マニラ政庁は、「ダトゥ(部族長、酋長。ラハ(raja、王)の呼び名もある。)」と呼ばれる、スペイン植民地下以前から各地に存在した貴族を村長などに任命して住民を支配することにしました。彼らは、「プリンシパリア」と呼ばれ、司祭が幅をきかせる地方政府において重要な役割を果たしました。
 
(スペイン植民地化前の「ダトゥ」に属するカップル)

Source: http://webapp1.dlib.indiana.edu/metsnav/common/navigate.do?pn=116&size=screen&oid=VAB8326
 

 一方、教会の司祭による指導もあり、農業の方法は、焼き畑農業のような移住型から、労働力を集中させる定住型に、18世紀末にかけて徐々に変化していきます。植民地時代前から貴族階級に属していた人々や「ダトゥ」は、この変化を上手く利用し、新たに農業が行われている土地は自分たちの土地であると主張し、すくなくともその土地の利用権を獲得します。この結果、「プリンシパリア」と呼ばれる富裕層は、地方の公職を占めるだけではなく、大規模農業を通じて富を蓄えていきます。結果として、少数の富裕層と大多数の零細農民という貧困層の二層から成る社会が出来上がるのです。
 
 19世紀に入り、1815年にはガレオン貿易が終了するとともに、砂糖、麻、コーヒー、タバコといった商品作物への国際的な需要が急に伸び、欧州向けの商品作物の輸出が拡大します。このような商品作物の生産と販売の拡大により、大土地を所有し、零細農民を使って商品作物を大量に生産できた「プリンシパリア」は更に富を蓄積します。同時に、中国人とフィリピン人の混血(メスティーソ)などで事業に成功した者たちが富裕層に加わります。結果として、富裕層と貧困層との貧富の差は更に拡がり、この二層構造社会が固定化されていくのです。
 
(スペイン植民地時代の城郭都市「インゴラムロス」の門前でのスペイン人護衛と民間人)

Source: http://philhistorypics.blogspot.com/2009/11/spanish-era-philippines.html
 
(スペイン植民地時代のマニラ、エスコルタ通り)

Source: http://philhistorypics.blogspot.com/2009/11/spanish-era-philippines.html

 
 1898年の米西戦争に勝利した米国が、フィリピンを植民地化します。米国は間接統治を採用したため、スペイン統治時代の支配構造をそのまま利用し、植民地統治を大土地所有者や富裕層に依存することになります。米国は、同時に、フィリピンを民主主義のショーケースとすべく、大量の米国人教師をフィリピンに送り込んで民主主義の担い手を教育するとともに、議会の開設と選挙の導入を積極的に行います。具体的な動きは、以下のとおりです。
 1901年 市長及び町長の直接選挙
 1902年 州知事の直接選挙
 1907年 フィリピン議会開設。下院議員選挙
 1916年 上院開設
 1935年 大統領直接選挙。コモンウェルス自治政府が設立。
 1939年 上院議員選挙
 
 米国は、選挙を繰り返し実施することで平等な社会が出現すると期待したのかもしれませんが、現実は異なっていました。地方レベルと国レベルでの選挙は、地方の富裕層のみを利することになります。彼らはほとんどの選挙で勝利するとともに、国家レベルでの政治権力にアクセスできるようになったのです。彼らは、マニラにおいて、地方の開発のために中央政府の資金を配分することを要求し、地方の公共事業については、大統領と地方から選出された国会議員の個別折衝によってその配分が決定されるようになっていきます。
 
 選挙を導入し、多くの公選職を作り出すというこの米国のやり方は、英国やオランダのような他の植民地宗主国の植民地統治方法と大きく異なります。これらの国は、マレーシア、シンガポール、インドネシアなどの植民地で官僚を育成し、官僚制を発達させることに注力しました。
 
(フィリピンでのコモンウェルス自治政府の開設)

Source: https://officialgazette.gov.ph/featured/commonwealth/
 

 1946年のフィリピン独立後も、地方の有力政治家ファミリー出身の政治家と中央政府及び大統領との国家予算をめぐる綱引きが続きます。1950年には、個々の国会議員が公共事業を選定することが可能になり、1955年には、下院議員がコミュニティ事業、上院議員が全国レベル公共事業を選定することが可能になります。更に、下院は、警察軍司令官、第一審裁判所の裁判官、土地局の地方官などの任命権を持つようになります。
 
 こうして、地方の有力政治家ファミリー出身の政治家が中央政府から資金を獲得し、自らの選挙区の関係者にその資金を配分することで自らへの支持と自らの立場を固めていったのです。フィリピン政治は、このような国、州、市町をつなぐ垂直的関係を基本的枠組みとしているという点では、多くの研究者の見方が一致しています。また、一方で、階級、イデオロギー、宗教などに基づく水平的な集団がフィリピン政治の中で優勢な存在とならず、政党は非常に弱かったとの点でも多くの研究者の見方は一致しています。
 
 このような地方の有力ファミリーの政治家による寡頭政治から決別し、フィリピン人の間の不平等や大衆の貧困を解消しようとしたのが先代のマルコス大統領であったとの見方があります。実際、マルコス大統領は、1972年の戒厳令以降、地方議会を停止し、地方の首長選挙も停止します。しかし、マルコス大統領の改革は、取り巻き(クローニ-)を重用した政治により、経済の非効率と腐敗を招き、失敗に終わります。
 
 1986年のマルコス大統領失脚後、1987年に新たな憲法が制定され、選挙が行われると、伝統的な地方の有力政治家ファミリーの勢力が再び躍進します。GMA News Researchによれば、2013年時点で、全80州(注:現在は81州)で有力政治家ファミリーが存在しており、下院議員の74%、上院議員24人のうちの19人が地方の有力政治家ファミリー出身であるとしています。この調査はまた、州知事の85%、町長の84%が地方の有力政治家ファミリーに属するとしています。
 
 もちろん、過去30年間のフィリピン社会の変化に伴い、フィリピン政治も変化しています。新たに出現した中間層と貧困層との分裂に焦点を当てる研究もあります。しかし、いずれにせよ、フィリピンの地方政治や国政をよりよく理解する上では、地方の有力政治家ファミリーの歴史的経緯を頭に入れておくことは有益であると思います。
 
在セブ総領事 山地秀樹


(注)本稿は、フィリピンにおける有力政治家ファミリーについての読者の理解を深めることを目的とするもので、それらを批判したり、フィリピン政治に対して否定的印象を与えることを意図するものではありません。本稿では、私の当地での経験と観察を提示しているにすぎず、それは、他の方々のものと同じかもしれませんし、異なるかもしれません。
 
(参考文献)
「21世紀のフィリピン政治研究」 高木佑輔 東南アジア-歴史と文化、No.47, 2018
「フィリピン-寡頭支配の民主主義 その形成と変容」 川中 豪  「アジアと民主主義-政治権力者の思想と行動」第4章、1997年 アジア経済研究所
「フィリピンの中間層生成と政治変容」 木村昌孝 「アジア中間層の生成と特質」第5章 JETROアジア経済研究所
「解題:東南アジアにおける地方首長と政治王国論」 岡本正明 「東南アジアの地方自治サーヴェイ」第3章、船津鶴代・籠谷和弘・永井史男編 JETROアジア経済研究所 2018年
「反市民の政治学-フィリピンの民主主義と道徳」 日下渉 法政大学出版局 2013年
“Policy Making after Revolution: The Faces of Local Transformation of the Philippines”, Takagi Yusuke, Southeast Asian Studies, Vol.10, No.2, August 2021, pp.199-221,
 (了)